「ありがとう」の暗黒面

ここ数年、ずっとモヤモヤしていたことを言語化してくれて、思わず膝を叩きたくなる記事だった。

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とはいっても、コロナ禍の中で、リスクを背負って働いてくださっている方への感謝表明に関する是非の話ではないです。

後半の

意図的に感謝を強調することで、苦しい現状に甘んじることを強いるような場合もあります。

という箇所に覚えた「目鱗」的な感覚を、書き留めて残しておきたいと思う。

あるコミュニティで、幹事の役割を10年以上やっている。定期的にイベントを開催するのが前提となる集まりで、その責任者でもあるので、準備には毎回それなりの労力を割くことになる。

細かい状況説明は省くが、とにかく現状は、幹事グループの中でも私を含む特にコアなメンバが、負担を一身に背負っている。それ以外の人々は、幹事グループに属しているメンバでさえ、基本運営にはノータッチだ。自発的に声を上げて協力してくれることは皆無、幹事MLに意見を募ってもコアなメンバからしか返事は来ない、名指しで個人的に連絡をするとやっと意見が出てくる、といった調子。幹事ですらない普通のメンバなどは推して知るべし。

このような状況でずっとイベントを回してきて、事前調整やら時間管理やらのスキルだけは無駄に高くなり、イベントは限られた人数でもほぼ支障なく運営できるようになっ(てしまっ)た。こういう背景もあって、私がかかわるようになってからのイベントは、毎回いつも参加者から感謝の言葉と有益なご意見をいただいて、ハッピーなエンディングを迎えることができている。ありがたいことである。

問題は、これまで自分のパワーになっていたはずの参加者からの感謝や労いが、どんどん響かなくなってきてしまったこと。また自分自身がこのコミュニティに対して持っていた愛情とか、このイベントを開催する目的でもある、あるパフォーマンスそのものへの情熱が薄れてきてしまったこと。

もちろん、私自身も変化しているんだろうが、なんかモヤモヤする気持ちを持て余してたところに、この記事に出会い「ありがとうの暗黒面」という新たな概念を獲得したのだった。

有り体に言えば、「ありがとう」という言葉を鼻先にぶら下げられて走る馬のようであることを期待されてるのでは、と思うようになってしまったんだな。

もちろん、冷静に考えれば、私の周りの心優しき人たちが、自分が運営にかかわらなくていい状況を維持するためとまで考えて、意図的に感謝表明をしているとは思わない(そういう意味で計算高い人たちではない、と思う)。むしろ、率直に示してくれているであろう感謝の気持ちを、これまた素直に受け取れない自分にも自己嫌悪を抱いて落ち込んだりもする。

でも、感謝の言葉は惜しみなく浴びせられるけど、実際の負担は一向に減らないというこの状況が何年も続いて、かつこの先も変わる見込みが立たないという状況になると、「感謝の言葉やお菓子なんてくれなくてもいいから、その気持ちを少しでも<現状を打開するための行動>で示してくれ!」という気持ちになってくるだよね。いったん自身の限界点を超えてしまったら、行動の伴わない感謝の気持ちなんて何の腹の足しにもならないんです。

もちろん、私自身にも事態がここに至る前に、時間かけて後継を育ててこられなかったという問題はあり、そこは反省しなきゃならない。そして、参加者があってこその運営、参加してもらえることこそが最大の協力なのでは?という意見もあるだろうと思う。

だから、今さらこういう問題提起をして、相手に変わってもらおうor分かってもらおうとは思わない。どうにか私自身が気持ちに折り合いをつけてソフトランディングに持っていくしかない。

でも、こういうモヤモヤを抱え、少しでも考える機会を得た人間として、当事者には常に感謝を表明するとともに、「今直面している事態をよくするために」 自分ができることを行動で示すことの大事さを肝に銘じて、今後いろんなことにかかわっていこうと思っている次第。